人間関係にも旬がある
大学の同期からの忘年会の誘いを、また断った。ここ数年はコロナを言い訳にし、今回は遠いからということにしておいた。
何回か参加はしたのだった。「おー久しぶり!今どうしてんの?」なんて会話から大体始まる。そして次は決まって昔話だ。あの時のお前はこーだった、あーだった。うるせー!なんてね。酔いが回って、カラオケ行っちゃいますか!となる。もう皆若くないし、最近の曲なんてわからないから当時のよく歌った歌を歌う。会は最高潮だ。だが、自分の心は何故か冷めていく。
そして帰り道に急に酔いがさめ、何とも言えないむなしい気持ちになる。それは何故なんだろう?
薄情と言われてもなにも文句は言えないが、自分の意見はこうだ。人間関係にも"旬"があるのだ。おいおい、人を魚や果物と同じみたいな言い方をするなよ!と怒られそうだが。
まず、基本的に人は物理的に近い人と濃密な人間関係を結ぶ。これは当たり前で、職場や学校であれば毎日接するわけだから。毎日接する人の中で、一応集団のようなものを作る。孤立するのは怖いし、少し大げさかもしれないが生きていくためには必要なことだからだ。
そのような偶然できた集団で、本当に自分と価値観が一致して腹を割って話せることなんて、滅多になくて当然ではないだろうか?だからいわゆる親友なんてものはなかなかできないし、出来たらそれは奇跡なのだ。
だからといって、人間関係そのものが不要だとか無意味だとは全く思っていない。過去のある時は、その時点で形成した人間関係が必要であったということだ。人は一人では生きていけない。
だが、人は常に変化し続けるものだ。距離が離れ、価値観も変わる。必要な人間関係だって変わるだろう。むしろ、変わらないほうがおかしいとすら思う。
人間関係は流動的なものであり、同じものにとどまる必要はない。
思い出は自分だけの宝
もう一つ忘年会で思ったこと。忘年会ではきまって思い出を語り合うけど。
思い出って年取るとどんどん美化されていく。でも、それでよいと思うんだよね。死ぬときって、金も名声もあまり意味がないと思っている。残るのは思い出だけだ。
だから、自分にって思い出は文字通り宝なのだ。生きる活力なのだ。他人と共有なんか、別にしたくない。ふと一人、もしくは親友や家族とあの時本当に楽しかったなってしみじみ振り返れればそれでよいのだ。
友達なんて少なくてよい
というわけで、当然ながら私は友達が少ない。でも、何も困っていない。それはおそらく、親友が2人と家族がいるからだろう。年に1度か2度親友と会うのが何よりの楽しみである。
年を取るごとに友人は減っていく。それは、自分にとって本当に必要な人間が分かってくるからだろう。だから友人なんて少なくていい。少ない方がいいかもしれないね。
俺は薄情なんだろうか?